親に人形扱いされると腹が立つ。たとえ僕が自分で選んだ進路であっても、それで、親が喜ぶなら、別の進路を選びたくなる。親の理想によって、僕が動いている、親の理想が僕を動かしている状況とその様に僕が感じる事象には、僕が僕であることが否定されたような気がして、心の底からドロドロした粘度の高い怒りが噴出してくる。親が言う、普通やったら○○するのになという言動に、怒りを通り越した呆れを感じる。親が、自分の子供を自分と同じ考え、価値観を持っているだろうと思い込んでいることと、未だに、そのような思い込みに違和感を感じずに思い込んだままで平然といることに、また腹が立つ。都合にいいところだけ馬鹿であると僕が感じているだけかもしれないが、僕にはそのようにしか見えない。自分の都合のいいようにしか物事を見ない。古い家族のテンプレを未だ信仰している。父は、、、。母は、、、。思考停止。テンプレに従っていれば何も考えなくて済む。現実を疑わなくて済む。生きることがテンプレ化している。生命的な潤いを人間にもたらす驚きが生活から消え失せる。その様な雁字搦めの観念の中では、人間は生きる気力がなくなる、か、頭がおかしくなる。生きたいという根源的な思いを感じれなくなる。

 テンプレは環境の変化にもろい。すぐに使えなくなる。だから、思考停止は死を意味する。親は変わらない。変えれない。親を思い通りにしようとすることはまた僕が、親が自分と同じ考えを持っているという前提に立った立場による行動であり、それは、まぎれもなく、僕が親と同じであることを意味し、このような憎しみを僕の子にも抱かせることにつながるというわけで、親を変えようとするよりも自分を変えたほうが良さそうなのだが、そこで、親の型にはまりやすくなるような自分を演出しようとすることにもう耐えれなくなったから、このブログを書いているのである。自分をどのように変えれば、この状況から脱出できるか。一人の社会人とみなす。中年の男と女。どうやら少しの間かくまってくれるらしい。

雨の日の日曜の午後

時間とは、意味で満たすべき空っぽの容器なのだろうか。窓から外の景色を眺める。2匹の鳥が飛んでいる。鳥が感じている風を想像する。雨の中。生きる意味を見出すことが、人生の意味なら、時間は、生きる意味で満たされなければならない。生きる意味とは何か。仕事と娯楽。それを生きる意味にしてしまっていいのか。意味は偶然性にゆだねていいのか。意味は、受動的に決まるものなのか。自分が素直に楽しいと感じることをする。他人を軸に生きない。自分で能動的に生きる意味を見つけて、その意味を日常の経験に基づいて、更新していく。生きる意味は静的なものではない。

頑張る?

頑張ることが目的になっている。頑張ることが正解として認識されている。頑張り度合いを他人と競う。頑張ることで安心する。頑張ることで自分の居場所ができるような気がする。頑張れない自分が嫌いだ。頑張らない人も嫌いだ。こんなにも我慢して、頑張っているのに、なんなんだお前らはという愚痴を心で掃き散らかすことがある。頑張っれない僕に対しても、俺は、こんなに頑張れるのに、こんなにすごいのに、なんなんだお前は、と自分を責める。頑張ることへの強迫観念が僕に住み着いている。何かをしないと罪悪感を感じる。僕は、誰かの役に立たないと存在価値がない。もっと必要とされたいのは、もっと自分の有能さを感じたい。有能感にひたって、優越感に浸って、自分が特別であることを実感したい。自分の行動に、決断に自信がない。何か間違いがあると自分を疑う。頑張ることで、自信を補える。頑張ることへの違和感。気持ち悪さ。その行為を問うことをせず、その行為を完遂することだけしか考えないことへの違和感。なぜを問うことを許されない空間。どのようににしか興味がない洗脳された部下。行為をすることで、行為の意味を問うことから逃れられる。

話が長い

僕には、前置き長いくせに、最後に「知らんけど」という癖がある。話が長い人は嫌いだが、それが自分であることに気づいて、しっとりと落胆を感じている。話しかけられるとうれしい。僕は、寡黙なのだが、話すことが好きなのである。できれば、永遠に話していたい。話題なんぞ、何でもよい。話すことで、知的好奇心を満たすだけでなく、それよりも、むしろ、普段とは違う僕が出てくるのが面白いのだ。僕の、母と祖父母は、すさまじく話が長い。正月は、久しぶりに、彼らに会うと、無性にイライラした。話が長い人は、自分が話が長いと自覚していない。話が長い人は、話すことで必死で、あれも言わねば、これも言わねば、ということが次々と頭に浮かび、それを永遠と繰り返すのである。訓練が足りないのだ。自分の意見に関する結論と因果関係、相手の話を聞く耳。それさえあれば、気持ちの良い会話ができると思う。

劣等感

 周りが優秀でつらい。周りが優秀でなぜつらいのか。むしろ周りが優秀であることで、その組織の生産性は向上するのではないか。つらい原因の一つに、僕よりできる人がいる空間では、僕の存在意義を僕は感じられなくなることがある。周りに比べて無能な僕の居場所がなくなり、窮屈を感じて、その場から、消えたくなる。辛さと悔しさに飲み込まれる。

 誰からも必要とされなくなることが僕には一番つらい。寂しいわけではない。むしろ一人の時間が愛しい。ただ、誰かから必要とされてる時に僕は僕が存在していることを深く実感できる。なぜ、必要とされることにこだわるのだろうか。おそらく、誰かから必要とされることで、その人への能力的な優越感を感じているのだろう。自己評価を他者との相対的な比較で行っているので、自己評価を上げるには、他者への優越感が必要になる。

 以上の一連のちぐはぐな思考をまとめてみると、周りが優秀であることで、誰かから必要とされることがなくなり、能力的な優越感を感じることができないために、自己評価が下がり、虚無感、空虚感によって生じた劣等感にむしばまれ、僕は僕の存在意義を感じれなくなるのであり、優越感を感じれない悔しさを優秀な他者に向け、さらにまた、その様な器の小さい自分に、自己嫌悪というパンチが入り、生きることがつらくなるのではないかというのが、自意識を拗らせまくった僕がたどり着いた一つの考察なのである。

 周りと比較することをやめる。過去の自分との比較を行ことでマイペースを保てる。自分のペースで、コツコツ前進する。周りにどれほど優秀な人がいても、その人に劣等感を感じて、その人を拒絶せずに、いいとこはパクる。それが、僕にあっているかもしれない。

後悔について

後悔はしていない。もっとできたはずだとも思はない。 と言ったらウソだ。何かの節目になると、あの時にという思考が僕の頭に浮かぶ。なぜ人は後悔するのか。その時は自分の選択に納得しているはずなのに、なぜ、後になってから、その時の自分を責めるのか。未来にいる自分は答えを知っているから、その正解だけしか、頭にないから、後悔するのだろうか。僕は傲慢なのだろうか。もっとできたはずなのにできてない現実から逃避するために後悔の自己泥酔に浸り続ける。出来た自分を想像する。できない自分は頭にない。その立派な自分を見て、今の自分を否定する。足を引っ張る自己否定では、成長できないことはわかっていても、こんな無力な僕を受け入れることはできない。その時にその選択をしたのは当の自分であり、何らかの事情があり、そのような選択をしたわけで、今の僕は、その時僕が抱いていた事情を考慮していないから、その選択に後悔しているのではないか。僕は僕でない。あの時の僕が抱いていた、感情、思考を今の僕が再現することはできない。とすると、僕という現象は、意識の感情、思考の複合体であるとすれば、僕は時間的に非連続な現象であるということになる。非連続な現象であるがゆえに、過去の自分を客観的に観察し、現在の自己の在り方を変えていくことができる。と、今、後悔とは別の思考が生じたことからも、僕は非連続であることが分かる。人は、見せかけに騙される。体という物理的実体が同じだからと言って、中身が同じだとは限らない。同じように見えるだけかもしれないのに、同じと認識してしまう。だから、僕は僕でない。過去の僕は僕でない。だから、今の僕の思考と、過去の僕の行為が矛盾を起こして、違和感を抱き、過去の自分と現在の自分は同じという幻想にとらわれ、過去の僕の行為、あるいは、僕自体を否定する。だから、僕はむしろ、後悔することを肯定する。後悔があるほど人間らしいと思う。なぜなら、後悔するということは、過去の自分とは別の思考形態を抱いているということになるわけで、現在の自分は、何かしらの特異点を境に、過去の僕とは決別しているわけで、だからこそ、違和感を抱くのであり、その違和感が大きいほど、後悔が大きいほど、それは、僕という現象が、成長したことになるからだ。後悔の大きさは、成長度合いに比例すると考えていいだろう。これが、「今」の僕という現象が持つ思考が編み出した後悔論である。おやすみ。

不安

現在が持つ不安。人間が持ちうる不安。今の状況、過去から今の状況が、未来永劫続くのではないかという推測が現在に不安をもたらしているのではあるまいか。過去は固体的で、現在の科学技術を持ってしても変えられない。未来は流動的で現在の選択次第で成形できる。現在はそんな広い視野を持たないから、絶望しかないのであり、そのように世界を認識している時の時間は、固体的で、生命感がなく、まるで永遠に続きそうだ。時間という概念に飲み込まれてしまった。飲み込まれてしまった現在が感じる時間に未来はない。