親に人形扱いされると腹が立つ。たとえ僕が自分で選んだ進路であっても、それで、親が喜ぶなら、別の進路を選びたくなる。親の理想によって、僕が動いている、親の理想が僕を動かしている状況とその様に僕が感じる事象には、僕が僕であることが否定されたような気がして、心の底からドロドロした粘度の高い怒りが噴出してくる。親が言う、普通やったら○○するのになという言動に、怒りを通り越した呆れを感じる。親が、自分の子供を自分と同じ考え、価値観を持っているだろうと思い込んでいることと、未だに、そのような思い込みに違和感を感じずに思い込んだままで平然といることに、また腹が立つ。都合にいいところだけ馬鹿であると僕が感じているだけかもしれないが、僕にはそのようにしか見えない。自分の都合のいいようにしか物事を見ない。古い家族のテンプレを未だ信仰している。父は、、、。母は、、、。思考停止。テンプレに従っていれば何も考えなくて済む。現実を疑わなくて済む。生きることがテンプレ化している。生命的な潤いを人間にもたらす驚きが生活から消え失せる。その様な雁字搦めの観念の中では、人間は生きる気力がなくなる、か、頭がおかしくなる。生きたいという根源的な思いを感じれなくなる。

 テンプレは環境の変化にもろい。すぐに使えなくなる。だから、思考停止は死を意味する。親は変わらない。変えれない。親を思い通りにしようとすることはまた僕が、親が自分と同じ考えを持っているという前提に立った立場による行動であり、それは、まぎれもなく、僕が親と同じであることを意味し、このような憎しみを僕の子にも抱かせることにつながるというわけで、親を変えようとするよりも自分を変えたほうが良さそうなのだが、そこで、親の型にはまりやすくなるような自分を演出しようとすることにもう耐えれなくなったから、このブログを書いているのである。自分をどのように変えれば、この状況から脱出できるか。一人の社会人とみなす。中年の男と女。どうやら少しの間かくまってくれるらしい。